私は非常に怖がりで寝るときも電気をつけている。夜中に真っ暗はなんだか嫌な気がするので朝まで小さいルームランプを点けている。良いランプと悪いランプがある、学習机に据えつけるような古ぼけすぎているランプはだめ、ほっこりした布製の傘つきのランプもだめ、大きすぎても小さすぎてもだめ、アーバンでおしゃれすぎてもだめ。ほどほどの大きさで、適度に生活感がなく、部屋の全体を照らしすぎないものがいい、そういうランプを夜通しつけている。
眠るとき、部屋の真ん中に空いている椅子を置きっぱなしにしているのが怖い。空いている椅子は「座ってもいい」というメッセージだから、誰かに(何に?)許可を出したことと同じになってしまう。部屋の隅に乱雑に寄せてみたり上に荷物を置いたりして、「座ってもいい」というメッセージを消しておく。
四六時中怖がっているわけではなく、たいていは何も怖くない。何も怖くないは嘘。怖いのはむしろ自分の生み出せる資産を超えて長生きしてしまうことだったり世界情勢だったり交通事故だったり仕事が期日に間に合わないことだったりする。幽霊という概念をそもそもあまり信じていない。
怖いというとき、ただ怖い。合戦場で首を落とされた落武者の霊、戦死者の霊、水子の霊、女の霊、孤独死して床の染みになった誰かの霊、という話なら、確固たる誰かのストーリーがあるなら、そりゃあ怖いが、そこまで怖くない。本当に怖いのは、原因も理屈もわからないけどそこで確かに何かが起こっていると感じたときの何かの気配であって、特定のストーリーではない。例えばゴキブリが出たとき、あ、ゴキブリがいると発見したとき、ゴキブリは大抵ピタッと止まる。どこで何をどう感じているのかわからないが、こちらの視線を感じ取って確かにピタッと止まる、あれによく似た感じで、こちらが気づいた瞬間に何か(何が?)もこちらに気づく気配がある、気づいた瞬間に結果が変わってくる気配がある。観測者がいると結果が変わってくる、自分の存在が向こうに感づかれている、感づかれていると意識する間もなく結果に介入してしまっていることが怖い。自分で自分の脳を疑うことができない以上、何がいるのか・いないのかを考える意味はあまりなくて、ふいに「何かいる」と思ってしまった瞬間に負けている。
私たちの思い描くような幽霊という存在が、もし仮に存在しているとして、それは大層辛いことだろうなあと思う。自分のことを体がある幽霊のように思う。思考がずっと同じところをループしている。疲れたりお腹が空いたり眠くなったりするので、動いて、外の匂いを嗅いだりして、簡単に気分がよくなったり悪くなったりする。一生脳の外側には出られないが、ガンダムやエヴァンゲリオンを操作するように体を操作して、楽な姿勢を取る。少しでも居心地の良い場所へ行こうとする。こんなにもかさばる、信じられないくらい脆弱で桃のようにやわらかい、何十年もかけてゆっくり萎びていくこの体があるということで助かっている、それほど心配しなくても、生きていくという苦痛には最初から期限が切られている。
死んでいるとして、いわゆる「幽霊」みたいなものがあるとして、それはたぶんあるワンシーンのキャッシュのようなものなんだろうなあと想像する。基本的に自分の記憶は自分が保持しておくしかないというのが原則で、死んだら消える。自分の保存領域をはみ出たものが一時ファイルのようにどこかに残っていて、たまたま読み取り感度のいい人が読み取っている、と思う方が理解しやすい。そこに能動的に思考できる人格があるわけではないし、生前の対象がそこにいるわけでもないんだろうなと思う。一時ファイルだから。理屈や文脈を失って、一瞬の断片としていろんなところに散らばっている、そこにもし気分みたいなものが宿っているのだとしたら、かなり苦しそうだと思う。
一度だけはっきり幽霊を見たことがある。25歳の頃、知り合いが立ち上げた店で働いていた、ビジネス街の駅近の雑居ビルに店舗を構えて毎日暇だった。昼食に牛丼を食べて戻ろうとすると、3階にあったその店に、ちょうど業者らしき中年男性が入っていこうとするところが見えた。ごま塩頭で、中肉中背で、水道屋のような色褪せた水色の作業服を着て、PCの一式でも入っていそうな大きなビジネスバッグを肩にかけている。店の入り口は狭い。このままのスピードで進んでいくと、入り口でごちゃついて、気まずくなりそうだった。踊り場で立ち止まり、1分か2分のあいだスマートフォンを見て、その業者らしい人物が完全に店内へ入っていっただろうと思えるだけの間を開けて戻った。「今戻りました、何の業者さんですか?」と聞くと、私が外出してから店には誰も来ていないと言われた。